人と違いたい、人と同じでいたい
亡くなってからずいぶん時間がたつ母が夢に出てきた。悲しい記憶について話す夢だった。普段なら目覚めたあとに悲しさや心残りだけが残るのに、今回は寂しさとともに「出てきてくれてありがとう」と思えた。その変化について考えるうちに、自分と似た家庭で育った人にも同じことが起きるのか知りたくなった。
人は他人との違いに自分の価値を見いだす一方で、同じ部分を見つけると安心することもある。人と違っていたいのに、自分だけではないとも思いたい。一見矛盾している。そしてどちらも他者との比較から生まれる感覚だ。自分らしさを知るときも孤独ではないと確かめるときも、そこには他者の存在が必要になる。
人と同じことも違うことも、比較のなかでしか見つけることができない。ところが比較する基準が一つに偏ると、違いを必要以上に大きく捉えてしまう。同じ考えの人だけを普通だと考えれば、そこから外れた人は間違った存在として扱う。相手を見下すことで自分の価値を確かめ、仲間と一緒に排除することで結束を深める。そうなれば自尊心も安心感も他者への攻撃によって支えられることになる。暴力や迫害が生まれる背景には、こうした人間の性質も関係している。
社会の前提に多様性が必要なのは、こうした比較の弱点を変えるためでもある。政治的な意見が合わない人とも子育ての悩みは共有できるし、育った環境が似ていても価値観まで同じとは限らない。比較する軸が増えれば、一つの違いだけで相手を敵と決めつけずに済む。人間は同じか違うかという二択では捉えきれないからだ。さまざまな人が存在するだけでなく、互いの複数の面を知る機会があることに意味がある。
一方で多様性も、自分たちの正しさを証明する道具に変わることがある。人によっては、「多様性を認める自分たちは正しい」という意識が強くなり、異論を排除し始めれば、違いを認めるはずの思想が同じ考えを持つ仲間だけを認めるものになってしまう。正しい側にいるという優越感と仲間に囲まれる安心感を得るために、批判していた排除を別の言葉で繰り返す。これは特定の思想に限らず、集団が自分たちの価値観を絶対視したときに起こり得る問題だ。
人と違うことで自尊心を得ることも、人と同じことで安心することも否定する必要はない。ただ、そのために他人を見下したり、同じ考えを強制したりする必要もない。人との違いをなくすのではなく、違いによって人の尊厳が損なわれない社会を作る。そのためには多様性が社会の前提として必要になる。ただそれだけの話だと思っている。